赤人の「伊予の温泉の歌」

「神さびゆかむ」

2012年6月6日公開

 今回は「山部宿禰赤人が伊予の温泉に至りて作る歌」をとりあげます。 軽太子の悲劇を据えた訳を試みています。 その訳の中から「神さぶ」「神さびゆかむ」の意味も明らかにしています。


 下記の「ももしきの大宮人」は允恭天皇の皇太子軽太子のことであり、三首は軽太子の悲劇(伊予へ配流・自害)を歌ったものだと述べました。 前回は八と三二三の話が中心になり、三二二にはほとんど触れることができませんでした。 三二二は八との関連がわかるように訳されなければならないと述べました。 今回はその三二二の訳を試みます。

熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな                (一・八)

皇神祖の 神の命の 敷きいます 国のことごと 湯はしも 多にあれども
島山の  宜しき国と こごしかも 伊予の高嶺の 射狭庭の 岡に立たして
歌思ひ 辞思はしし み湯の上の 樹群を見れば 
臣の木も 生い継ぎにけり 鳴く鳥の 声も変わらず
遠き代に 神さびゆかむ 行幸処                               (三・三二二)
 反歌
ももしきの大宮人の飽田津に船乗りしけむ年の知らなく                  ( 三・三二三)
                                 (『日本古典文学大系 万葉集』 岩波書店)



 先ず、三二二を幾つかに区切って訳しました。参考までに『日本古典文学大系』と『新編日本店文学全集」を併記しました。
 原文と訓読は『日本古典文学大系』によりました。 [  ]内は『新編日本古典文学全集』によるものです。 ただし、送り仮名の違いは併記していません。 訳文のことを『大系』は大意、『新編全集』は口語訳としている。

 原文   皇神祖之  神乃御言乃 敷座 国之尽
 訓読   皇神祖[天皇]の 神の命の 敷きいます 国のことごと
 訳者  日本古典文学大系 新編日本古典文学全集  拙訳
 訳文  すめろきの神の命のお治めになる国のことごとくに、  歴代の 天皇が お治めになっている 国ごとに  軽太子の霊が 留まる 国のいたるところに



第5句から第8句

 原文  湯者霜 左波尒雖 島山之 宜国跡
 訓読  湯はしも  多にあれども[さはにあれども] 島山の 宜しき国と
 訳者  日本古典文学大系  新編日本古典文学全集  拙訳
 訳文  温泉はたくさんあるが、島や山の宜しい国であるとて、  温泉は たくさんあるが なかでも島も山も よい国として  湯湧き出る所が たくさんあって しかも島も山もそろって 風光明媚な国であるとわれているので、



第9句から第12句

 原文  極此疑 伊予能高嶺乃 射狭庭乃 岡尒立而
 訓読  こごしかも 伊予の高嶺の 射狭庭の 岡に立たして
 訳者  日本古典文学大系  新編日本古典文学全集  拙訳
 訳文  𡸴岨な伊予の高嶺の射狭庭の丘にお立ちになって、  険しい 伊予の高嶺の 射狭庭の 岡に立たれて  斉明天皇は皇子は此処に幽閉されたと思われたのであろうか 伊予の高嶺の 射狭庭の 岡にお立ちになって



第13句から第16句

 原文  謌思 辞思為師 三湯之上乃 樹村乎見者
 訓読  歌思ひ 辞思はしし[辞思ほしし] み湯の上の 樹群[木群]を見れば
 訳者  日本古典文学大系  新編日本古典文学全集  拙訳
 訳文  歌をお考えになり言葉をお練りになった、この温泉のほとりの群がった樹立を見ると  歌を案じ 言葉を練られた 温泉のほとりの 木立を見ると  慰霊の歌を考え 辞を考えられた 湯の池の上の 茂みを見れば



第17句から第20句

 原文 臣木毛 生継尒家里 鳴鳥之 音毛不更
 訓読 臣の木も 生い継ぎにけり 鳴く鳥の 声も変らず
 訳者  日本古典文学大系  新編日本古典文学全集  拙訳
 訳文  臣の木も生い代って成長しているし、鳴く鳥の声も変っていない。  臣の木も 新たに茂っている 鳴く鳥の 声も変わっていない  臣の木も 軽太子の当時から生い続け 鳴く鳥の 声もかわっていない



第16句から第18句

 原文  遐代尒 神左備将往 行幸処
 訓読  遠き代に 神さびゆかむ 行幸処
 訳者  日本古典文学大系  新編日本古典文学全集  拙訳
 訳文  将来永く神々しい姿を保ってゆくであろうと思われるこの行幸の所である。  遠い将来までも いよいよ神々しくなって行くことであろう 昔の行幸の跡は  ここは遠い昔を偲んで 斉明天皇が軽太子の霊を祀ろうとした 行幸処


 拙訳に若干補足しておきます
 この歌を訳す上で、動作の主体、主語および対象となる語に斉明天皇や軽太子を見いだすことが前提になければなりません。
 第1句の「皇神祖」を先述の通り八、三二三との関連で、「軽太子」としています。 軽太子は配流され自害した。 その霊は伊予に留まっている。 それを「敷きいます」と表現したのです。 ここでいう「国」とは軽太子の霊が留まる伊予国のことです。 「国のことごとと」は、「伊予国のいたる処で」という意味なのです。 伊予国、讃岐国、吉備国、阿波国、紀伊国などのそれぞれの国ごとにという意味ではありません。

 第6句 「雖」をどう解釈すればよいか困りました。 並列的に訳訳しました。 拙訳では、「あちこちに湯の沸く国であって、しかも島山の風光明媚な国と聞き及ぶので」としました。 軽太子が流されたのは、伊予の中でも温泉が湧き、島山の風光明媚な場所にある処が軽太子には相応しい。斉明天皇はその条件に適うのが射狭庭の周辺と考えたのでしょう。

 第9句 「極此疑」については従来と全く違う訳になっています。 若干詳しく述べたいと思います。

 第13句 射狭庭で斉明天皇は鎮魂・慰霊の神事の辞を考えたのしょう。(「歌思ひ 辞思はしし」)。 この神事は、厳島神社の月明かりと満潮の夜に行われるの神事や出雲大社の夜間に行われる「神幸祭」のように、夜間に行われたものと梅原氏は考えています。 そうであるなら、辞そのものは射狭庭で練ったが、歌は神事の場で感愛の情に駆られ思わず出てきたのだと思われます。

 末尾の三句 「遠き代に 神さびゆかむ 行幸処」についても詳しく述べたいと思います。



 「極此疑」について

 「ゴシカモ」と読んで、ごつごつしたさま、凝り固まったさまとされています。 たとえば、

○こごしかも-コゴシは凝り固まってごつごつとしたさま。語幹のまま感動を表すカモの接続した形 (『大系』)
○こごしかも-このカモは「ゆゆしきかも」(199)のそれと同じく間投詞として連体格の働きをなす。
 コゴの原文「極」は『万象名義』に「高也、遠也、窮也」とあり、意味の上からと、呉音ゴク(ゴコ)の音からとの両面 を兼ねた用法。 (『新編全集』)

などと解説されています。これは妥当なのでしょうか。

用例を検索してみます。(「山口大学万葉集検索システム」による。 『大系』により確認。漢字表記等が検索文と異なる時は『大系』に従った。)

磐金之 凝敷山乎 超不勝而 哭者泣友 色尒将出八方
磐が根のこごしき山を越えかねて哭には泣くとも色に出でめやも(三〇一)


足日木能 石根許其思美 菅根乎 引者難三等 標耳曽結焉
あしひきの岩根こごしみ菅の根を引かば難みと標のみぞ結ふ(四一四)


神左振 磐根己凝敷 三芳野之 水分山乎 見者悲毛
神さぶる岩根こごしきみ吉野の水分山を見ればかなしも(一一三〇)


石金之 凝木敷山尒 入始而 山名付染 出不勝鴨
岩が根のこごしき山に入り初めて山なつかしみ出でかてぬかも(一三三二)


為須部乃 田付[クチヘン+リットウ]不知 石根乃 興凝敷道乎 石床笶 根延門[クチヘン+リットウ] (以下略)
為む為方の たづきを知らに 石が根の こごしき道を 岩床の 根延へる門を (以下略)(三二七四)


(前略)将為須部乃 田度伎乎不知 石根之 許凝敷道之 石床之 根延門尒(以下略)
(前略)為む為方の たどきを知らに 石が根の 凝しき道の 石床の 根延へる門に (以下略) (三三二九)

(前略)可吉多知夜麻 布由奈都登 和久許等母奈久 之路多倍尒 遊吉波布里於吉弖 伊尒之邊遊 阿理吉仁家礼婆 許其志可毛 伊波能可牟佐備 多末伎波流 伊久代經尒家牟 多知氐為弖 見礼登毛安夜之 [方尓]祢太可美 多尒乎布可美等(以下略)
(前略)高き立山 冬夏と 別くこともなく 白栲に 雪は降り置きて 古ゆ あり来にければ こごしかも 岩の神さび たまきはる 幾代経にけむ 立ちて居て 見れども奇し 峰高み 谷を深みと(以下略)(四〇〇三)

 「許其思美」(四〇〇三)はコゴシミと抵抗なく読めます。 大和言葉を漢字の音を借りて表記したと容易に理解できます。
 「凝敷」(三〇一)は「こごる」という大和言葉に、「かたまる」を意味する漢字の「凝」をあてたものです。  従って「コゴシキ」と読むことは可能なのです。 「 己凝敷」(一一三〇)、「興凝敷」(三二七四)、「許凝敷」(三三二九)は積極的に音と意味の両方を漢字から借用していることが理解できます。
 ところが、三二二の「極此」をコゴシと読むことはできるでしょうか。 『大系』は音の由来については触れていません。 コゴシと読み、意味だけを解説しています。 由来はわからないが、昔からそう読まれているとでも言っているかのようです。
 『新編全集』は「極此」を「コゴシ」と読む理由を探しているようですが、成功しているとは思えません。 大和言葉「コゴシ」は三音節のなのです。「KO GO SHI」です。「極」は二音節「GO KU」ではありません。一音節「G Ok」なのです。 また、なぜ「K Og」が「G Ok」になるのか理解できません。 「極此」を「コゴシ」と読むには無理があります。
 上記の例では「コゴシ」はいずれも岩や山の堅固なさまをあらわす形容詞であることは理解できます。
三〇一、一一三〇、一三三二、三二七四、三三二九は修飾語であり、修飾される名詞はその直後にあります。
四一四、四〇〇三は叙述語です。 この叙述語の直後で句が切れるのです。 四〇〇三は「コゴシ(叙述語)」+「カモ(終助詞/感嘆)」の形になっています。  カモが入ればここで句は完全に切れるのです。

   あしひきの岩根こごしみ菅の根を引かば →  「あしびきの岩根こごしみ」+「菅の根引かば」

   高き立山・・・・こごしかも 岩の神さび・・・・見れどもくすし
                            →「高き立山・・・こごしかも」+「岩の神さび・・・・見れば奇し」

 いま問題としいる「極此疑 伊予能高嶺乃」の「疑」は文字通り疑問の終助詞で「カモ」と読むことに異論はないと思います。 ならば「カモ」でいったん句が途切れ、あらたに「伊予能高嶺乃・・・」と始まるのです。

                  「湯者霜 左波尒雖 島山之 宜国跡 極此疑」+「伊予能高嶺乃 射狭庭乃 岡尒立而」

となるわけです。 その場合「極此」が形容詞であるなら当然叙述語となります。

 ところが前方にコゴシによって叙述される語が見当たらないのです。 「極此」を「コゴシ」とよみ「ゴツゴツとしたさま」とする以上、コゴシによって叙述される山や岩がないと困るのです。 すぐ後方を見れば「伊予能高嶺」があります。 「カモ」が挟まっているけど、この際細かいことは無視というわけではないでしょうが、修飾語に読みかえて、後ろへ続けてしまったのではないでしょうか。 しかしそれでは据わりが悪いのです。
 「極此」=「ゴツゴツとしたさま」では、前に叙述される語がない。 後ろには修飾される語はあるが、なんだか据わりが悪い。 となればこの等式は却下されねばならないのです。


 この歌はいったん「極此疑」で句切る。 「極此」は形容詞ではない可能性も視野に入れる。この歌に斉明天皇、軽太子を見いだすように訳す。 「極」「此」の漢字も意味を勘案し、「極此疑」で句が切れても意味のと通る訳を探るのです。

        斉明天皇は、軽太子が此処に幽閉されと思われた(極めた)のであろうか(疑) 

のように拙訳してみました。その場合、「極此疑」を何と読んだらいいのか私自身よい案が浮かびません。

 梨壺の五人、仙覚、下河辺長流、契沖、真淵、誰が最初か知りませんが、「極此」=「ゴツゴツとしたさま」を満たす方程式の解を後方の「伊予能高嶺」に求めたのでしょう。 それを明治以降の学者も引き継いだのでしょう。しかしそれでは据わりが悪いのです。 大野晋氏は「語幹のまま感動を表すカモの接続した形」などと解説をつけて、据わりの悪さを解消しようとしたのではないでしょうか。





「 神さびゆかむ」について

 最後に末尾三句、「遠き代に 神さびゆかむ 行幸処」をとりあげます。

    将来永く神々しい姿を保ってゆくであろうと思われるこの行幸処   ○遠き代-未来永く   (『大系』)
    遠い将来までも いよいよ神々しくなってゆくことであろう 昔の行幸の跡は        (『新編全集』)

 『大系』『新編全集』はともに次のように処理しています。

    1.「遠き代に」を「遠い将来」ととらええいる
    2.主語を行幸処としている
    3.「かむさび行かむ」の「む」を推量の助動詞としている
    4.かむさぶを「神々しくなる」と訳している

 この三句がこの歌の主眼なのですが、今まで誰もわからず、「いよいよ神々しくなってゆくことであろう 昔の行幸処は」で済ますしかなかったのです。

 末尾三句の拙訳は、次の三点が従来の説と大きく違う点です。

   第一、「遠き代に」とは過去を指す語である。未来を指す語ではない。
   第二、「神さびゆかむ」の主語は斉明天皇である。「む」は斉明天皇の意志を表す助動詞である。
    第三、「神さぶ」が「神々しくなる」という従来の解釈は適切ではないが、「神さびゆかむ」をそのまま訳してみる。

    遠き代に          遠い昔を偲んで 
    かむさび行かむ      (斉明天皇が)神さび行こうとした 
    行幸処           行幸処

 となります。そうすると「神さびゆかむ」とは具体的に、

           「斉明天皇が軽皇子の霊を慰めよう、祀ろうとした」

と理解することに無理はないのです。 これでこの歌の起承転結がはっきりしました。

 反歌三二三は独立して三二二の周縁を歌ってはいますが、内容的には三二二に内包され、「遠き代に 神さびゆかむ 行幸処」の余韻を深める詠嘆の終助詞的な位置づけに思えてきます。



 「神さぶ」という言葉の意味もはっきりしてきました。
 いままで、鎮魂・慰霊という言葉を使ってきましたが、 もっと幅広くとって 「祀る」 としたほうがよいと思います。

 即ち 「神さぶ」とは

 ①「神や霊的なものあるいは死者を祀る」という意味なのです。

 ②「神さぶ」が連体形で、古木、巨木、奇岩、巨岩などを指す時は、「神や霊的ものが宿る、鬱蒼として霊気漂う、神秘的な」という意味です。 そして、「それゆえ信仰・畏敬の対象として祀られる」という意味も含むと思われます。

 日本人は古来、古木、巨木、奇岩、巨岩、山などに神や霊的なものが宿るとしてきました。 それらは神や霊的なものが宿る「依り代」なのです。 そこに注連をはり、神域であることを示してきたではないですか。

 テレビでとりあげられる怪奇現象の地、霊験あらたかな地を最近はパワースポットなどと横文字を使いますが、あれこそ「神さぶる地」なのです。

 ざっと見て、②の意味と思われる歌を幾つか上げてみます。

 天地の 分れし時ゆ 神さびて 高く貴き駿河なる 布士の高嶺を 天の原 ふり放け見れば(以下略)   (三一七)
 富士が信仰され畏敬の念を向けられるのは霊的なものが宿ると考えるからです。

  君が行き日長くなりぬ奈良路なる山齊の木立も神さびにけり (八六七)
 今では山齊の木立も鬱蒼と生い茂り霊気宿るほどだ。君が此処を去ってから、それほど長い年月が経た。
 手入れをされない庭は数年で荒れ放題に荒れて、樹木が生い茂り鬱蒼としするものです。

 茂岡に神さび立ちて栄えたる千代松の樹の歳の知らなく(九九〇)
 茂岡に霊が宿るほど鬱蒼として畏敬の念をあつめ立ち栄える千代の松は幾年月を重ねてきたのか

 難波門を榜ぎ出て見れば神さぶる生駒高嶺に雲そたなびく(四三八〇)
 往馬坐伊古麻都比古神社(生駒神社)の祭神は伊古麻都比古神・伊古麻都比賣神です。生駒山はそのご神体なのです。

 神さぶる垂姫の崎漕ぎめぐり見れども飽かずいかにわれせむ(四〇四六)
 垂姫伝説は家持の時代からあって、垂姫が祀られていたのでしょう。神々しい垂姫の崎では何のことがわかりません。



 また「神さぶ」は「神ながら、神さびせすと」のように用いられることが多いのです。 吉野の宮に幸しし時、柿本朝臣人麿の作る歌(三六、三七、三七、三九)、軽皇子安騎の宿りましし時、柿本朝臣人麿の作る歌(四五)の中にもあります。 「神でいらっしゃるままで、神らしくふるまわれとて(大系)」、「神であるままに、神らしく振る舞おうと(新編全集)」などと訳されています。 これに疑いを挟まれたことはないようです。 私自身は見直しが必要だと思っています。




「遠き代に」ついて補足
 三二三のほかに万葉集中三例見つかります。すべて過去をさしているのです。(原文・訳文は『大系』による)
(前略)夏虫の 火に入るが如 水門入りに 舟漕ぐ如く 行きかぐれ 人のいふ時 いくばくも 生けらじものを 何すとか 身をたな知りて 波の音の 騒ぐ湊の 奥津基に 妹が臥せる 遠き代に ありける事を 昨日しも 見けむが如も 思ほゆるかも             (一八〇七)

[訳]昔の出来事が、昨日実際に見てきたように思われる

(前略)茅渟壮士 その夜夢に見 取り続き 追ひ行きければ 後れたる 菟原壮士い 天仰ぎ 叫びおらび 足ずりし 牙喫み建び 如己男に 負けてはあらじと 懸佩の 小剣取り佩き ところかつら  尋め行きければ 親族どち い行き集ひ 永き代に 標にせむと 遠き代に 語り継がむと 処女墓 中に造り置き 壮士墓 此方彼方に 造り置ける 故縁聞きて 知らねども 新喪のごとも 哭泣きつるかも                 (一八一〇)

[訳]親族達は、集って、永久に、標としようと、末代まで語り継ぐようにと、処女塚を中に造り、壮士の墓を、その右と左に造っておいた


(前略)天地の 神相珍なひ 皇御祖の 御霊助けて 遠き代に かかりし事を 朕が御世に 顕はしてあれば 食す国は 栄えむものと 神ながら 思ほしめして(後略)    (四〇九四)

「天地の神々も貴重な本の互いに喜ばれ、皇祖の御霊も力を添えられて、遠い昔にあった瑞事をわが世にも顕わされたから、大御代は栄えられるだろうと」神にましますままにお思いになって

 一八〇七、四〇四九の「遠き代に」は明らかに過去を指しています。 ともに、「遠い昔のある時点で」と言い換えることができます。
 一八一〇は、一見すると「永き代に 標にせむと 遠き代に 語り継がむと」と「永き代」と「遠き代に」が対をなし、「遠き代」が「遠い将来」を指すように見えます。 一八〇七、四〇四九が明瞭に「遠い過去」を指しているのに、一八一〇では「遠い未来」を指しているのでしょうか。
  『大系』が「末代まで語り継ぐようにと」と訳したのは、この点へのためらいがあるように思えます。 『新編全集』は「永久に伝えようと 遠い未来まで 語り伝えようと」と訳し迷いがないようです。しかし、「遠い将来の代」とするのは、早とちりとおもいます。「遠い将来」に対しては、百代に、千代に,八千代に、万代にという語があるのです。
 これも「遠い昔のある時点で」を生かしたまま訳せないものでしょうか。
 遠い昔のあの事件のあった時に いつまでも語り継ごうという意志が生じたので  処女墓を中央に配し 荘士の墓をその左右に配した、とすることができると思います。


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