ももしきの迷路

枕詞「ももしきの」の意味をさぐる

著者へ   hyakkokujou@momoshiki.com    

はじめに
 当サイトは、枕詞「ももしきの」について考えた。枕詞「ももしきの」をもつ歌は万葉集に二十首有る。そのうちの幾つかについて、私が思っていることを述べた。

 そこから派生的に、「神ながら、神さぶ」、「(宮柱)太敷く」についても言及した。

 それらをもとに、人麻呂の吉野賛歌、安騎野行啓歌、草壁皇子挽歌、とりわけ高市皇子挽歌を検討して、「歌聖」人麻呂と赤人は、「哥をよむひじり」であることを論じた。

 とりあえず自説を公表したくて本サイトを立ち上げた。
目    次 内            容  公開日
 ももしきは百石城か その1   ここでは、「三重の采女説話(古事記)」、「過近江荒都時柿本朝臣人麻呂作歌(万1・29)」、「ももしきのすまひ(紫式部集)」「順徳院の歌(百人一首百番)」に出てくる「ももしきの」および「ももしき」について論じています。  
   わかってみれば、コロンブスの卵です。
2012年5月29日
ももしきは百石城か その2   ももしきの大宮人の熟田津に舟乗りしけむ年の知らなく(万2・.323)をとり上げました。
 赤人が歌うももしきの大宮人は伊予へ流された允恭天皇の皇太子軽太子のことです。ももしきの大宮人は、赤人を遡ること200年以上前の大宮人なのです。
 「ももしきの」=「百年以上前の昔の、大昔の」という意味なのです。
2012年6月1日
赤人の「伊予の温泉の歌」- 神さびゆかむ   「山部宿禰赤人が伊予の温泉に至りて作る歌」をとりあげます。 軽太子の悲劇を据えた訳を試みています。 その訳の中から「神さぶ」「神さびゆかむ」の意味も明らかにしています。 2012年6月6日
 ももしきの大宮人は去き別れなむ  やすみしし わご大君の かしこきや 御陵仕ふる 山科の 鏡の山に 夜はも 夜のことごと 昼はも 昼のことごと 哭のみを 泣きつつ在りてや 百磯城の 大宮人は 去き別れなむ(155)
枕詞「ももしきの」が「百年以上前の昔の、大昔の」という意味であるとすると、「もしきの大宮人」が存在しません。額田王は一体、誰と別れてきたのでしょうか。
2012年6月9日
 ももしきの大宮人ぞ立ちかわりける 恭仁京の歌  万葉集6・1047から1061には、田邊史福麿による久邇京遷都の一連の歌があります。「咲く花の色はかはらず ももしきの大宮人ぞたちかはりける(1061)」を除き、「ももしきの」が付されぬ大宮人・大宮所が存在します。通説の「多くの石を築いて作った城(キ)」の意味なら、枕詞「ももしきの」をつけて新都の宮殿を讃えることこそ相応しいはずです。なぜ、枕詞「ももしきの」のない大宮人・大宮所が存在するのか。 2012年6月17日
 「哥をよむひじり」人麻呂と赤人  柿本人麻呂は「哥をよむひじり」である。不比等に召喚され、妻を残し石見から上京、草壁皇子の殯宮を執り行い、軽皇子の無事成長と即位を祈願した。近江、吉野、印南、熊野、讃岐、筑紫へ悲運に倒れた皇祖たちの御霊を鎮め、軽皇子無事成長祈願した。文武天皇(軽皇子)即位、大宝元年首皇子誕生により人麻呂は任を終え、多治比真人某に付添われ帰郷。我家を前に客死した。
 人麻呂単身赴任説を受入れる時、人麻呂歌集歌の略体・被略体、制作年代に新たな視野が開けるだろう。また、七夕歌を実態のある「人麻呂の石見の遠妻との歌のやりとり」として、一首一首丁寧な読み解きが可能となろう。
2015年4月28日