「哥をよむひじり」人麻呂と赤人
1 「歌聖」人麻呂、赤人は、「哥のひじり」、「哥をよむひじり」である。「石見のひじり」人麻呂は不比等に召喚され草壁皇子殯宮に上京した。近江を過ぎる時、大友皇子と忍熊王を鎮め、宇治に忍熊王と若郎子を鎮め上り来た。[1] 持統天皇は、吉野盟約を違えて大津皇子を粛清した。結果、草壁皇子を失い、孫の軽皇子は幼く、血統断絶に 怯えていた(3節)。人麻呂は殯宮後も都に留まり、軽皇子無事・即位祈願の祭祀を執り行った。吉野へ従駕し、天神地祇、神武、応神、雄略、斉明、天武天皇
を祀り、古人大兄、大津皇子の御霊を鎮め、軽皇子無事・即位を祈願した。阿騎野では神武、天武天皇、草壁皇子に軽皇子無事・即位を祈願した。熊野、印南
野、筑紫、讃岐へも祭祀に赴いた。高市皇子、明日香皇女殯宮も執り行った。日々の宮中祭祀、竜田広瀬も祀ったであろう。 軽皇子(文武天皇)即位、大宝元年、子宝首皇子(聖武天皇)誕生により人麻呂は任を終えた。同年の紀伊行幸(誕生御礼と有間皇子、衣通姫鎮魂)を最後に、不比等は丹比真人某を付添いとして人麻呂を帰郷させた。人麻呂はわが家を目の前に客死した。 「常陸のひじり」赤人は聖武天皇の皇子誕生祈願祭祀を執り行った(6節)。文武天皇―宮子―不比等―人麻呂と聖武天皇―光明子―房前―赤人の関係は相似である。人麻呂は不比等の、赤人は房前のお抱えの「哥をよむひじり」である。 2
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連体修飾句 | 主語 | 述語部 |
A 神之命等 天雲之 八重掻分而 神下 座奉之 | 高照 日之皇子波 | D ゝ座奴 |
B 飛鳥之 浄之宮尒 | 神随 | |
C 太布座而 天皇之 敷座国等 天原 石門乎開 | 神上 |
私訳を掲げる
(A)神の命として 天雲の 八重をかき別きて 天下り来た神を【神下=邇邇芸命】
座せ奉りし【座奉之】 高照らす 草壁皇子は【高照 日之皇子波】
(B)飛鳥の 浄御原宮に (薨去し)皇子のなりし神は【神随】
(C)宮柱に依り【太布座而】 天武天皇の敷きます国である【天皇之敷座国等】
天の原への 石門を開き 天上る神は【神上=草壁皇子之御霊】
(D)神上られた【ゝ座奴】
A、B、Cは並列主語ではあるが、「A草壁皇子は、B死して神となり、Cその御霊は、D天武天皇のいる高天の原へ神上がった」という構造を持っているのである。
では、「邇邇芸命を座せ奉りし草壁皇子」とは何か。答えねばならない。
草壁皇子は自らの短命を悟った。「自身、軽皇子」が「忍穂耳命、邇邇芸命」に重なる。邇邇芸命を座せ奉り、我子軽皇子の行く末を託し案じつつ、草壁皇子のなりし神【神随】は即位せぬままに、亡父天武天皇の敷きます国への石門を開き、神上がったのである。
定説では、【高照 日之皇子】は天武天皇である。筆者は草壁皇子を主張する。この歌の主題は一貫して草壁皇子の薨去である。二重写し説は不要である。天武天皇神格化も歌われてはいない。
4-3
高市皇子尊の城上の殯宮の時、柿本朝臣人麿の作る歌一首并に短歌
(A)かけまくも ゆゆしきかも 言はまくも あやに畏き 明日香の 真神の原に ひさかたの 天つ御門を かしこくも 定めたまひて (B)神さぶと 磐隠ります やすみしし わご大君の きこしめす 背面の国の 真木立つ 不破山越えて 高麗劒 和蹔が原の 行宮に 天降り座して 天の下 治め給ひ 食す国を 定め給ふと 鶏が鳴く 吾妻 の国の 御軍士を 召し給ひて ちはやぶる 人を和せと 服従はぬ 国を治めと 皇子ながら 任け給へば 大御身に 太刀取り帯ばし 大御手に 弓取り持 たし 御軍士を あどもひたまひ 齊ふる 鼓の音は 雷の声と聞くまで 吹き響せる 小角の音も 敵見たる 虎か吼ゆると 諸人の おびゆるまでに 捧げ たる 幡の靡きは 冬ごもり 春さり来れば 野ごと 着きてある火の 風の共 靡くがごと 取り持たる 弓弭の騒 み雪降る 冬の林に 飃風かも い巻き 渡ると 思ふまで 聞きの恐く 引き放つ 矢の繁く 大雪の 乱れて来れ 服従はず 立ち向かひしも 露霜の 消なば消ぬべく 行く鳥の あらそふ間に 渡会の 齋の宮ゆ 神風に い吹き惑はし 天雲を 日の目も見せず 常闇に 覆ひ給ひて (C)定めてし 瑞穂の国を 神ながら 太敷きまして (D)やすみしし わご大王の 天の下 申し給へば 万代に 然しもあらむと 木綿花の 栄ゆる時に (E)わご大王 皇子の御門を 神宮に 裝ひまつりて 使はしし 御門の人も 白𣑥の 麻衣 着 埴安の 御門の原に 茜さす 日のことごと 鹿じもの い匍ひ伏しつつ ぬばたまの 夕べになれば 大殿を ふり放け見つつ 鶉なす い匍ひもとほり 侍へど 侍ひ得ねば 春鳥の さまよひぬれば 嘆きも いまだ過ぎぬに 憶ひも いまだ尽きねば (F)言さへく 百済の原ゆ 神葬り 葬りいまして 麻裳よし 城上の宮を 常宮と 高くまつりて 神ながら 鎮まりましぬ (G)然れども わご大王の 万代と 思ほしめして 作らしし 香具山の宮 万代に 過ぎむと思へや 天の如 ふり放け見つつ 玉襷 かけて偲はむ (H)恐かれども (1・一九九)
(短歌二首略 歌中傍線は筆者)
この歌の主題は、恃みの太政大臣高市皇子を失った持統天皇への人麻呂の慰めである。
上のA~Hの傍線部を訳す。訳に当っては、「奉」「申」「賜」に注意すべきである。
これらは謙譲語、尊敬語であり、誰の誰に対する行為かを明確にする語である。D、E、Fを訳すに当っては主語を明確に意識すべきなのである。
A かける言葉もなく ゆゆしき事態 言葉にするまでもなく 畏れ多いこと
▼慰めの言葉なく、陛下の哀傷察するも憚られること、と人麻呂は切出す。
B 神として祀られ【神佐扶跡】 磐戸にお隠れになっている【磐隠座】 先帝陛下が【八偶知之 吾大王之】
▼今は亡き天武天皇が国を平定しようと、高市皇子に一軍を授けた。以後、躍動的な皇子の奮戦が描
かれる。
C こうして平定した瑞穂の国をあとに【定之 水穂之国乎】 先帝陛下の死してなる神は【神随】
宮柱から天に上られて【太敷座而】
▼本稿二節冒頭に述べた語義そのままである。主語は天武天皇である。
D 陛下(持統)が 天下を 申し賜われたので【八偶知之吾大王之 天下 申賜者】
▼持統皇后が天武天皇から天下を申受けられた。申は持統天皇の天武天皇への謙譲語。賜は人麻
呂の持統天皇への尊敬語。天武天皇から持統天皇が天下を継承され、その御代が高市皇子の補弼を
得て栄えた。その高市皇子が薨じたのである。【八偶知之吾大王】を高市皇子と解するは早計である。
E 陛下は 皇子の 御門を 神宮に 飾り奉り【吾大王 皇子之 御門乎 神宮尓 装束奉而】 (陛下
が高市邸に)派遣した 御門の衛士も【遣使 御門之人毛】 白𣑥の 麻衣を 着て 祗候し
▼高市皇子生前の功に報い、持統天皇は高市邸を神宮に飾らせた。「奉」は装飾受命・実行者人麻呂
の皇子への謙譲である。そして持統天皇が派遣した御門警護の衛士も白栲の麻衣を着て祗候したの
である。字面を考慮すれば、遣使 御門之人を高市皇子の使用人とすることに無理がある。
あるいは、「吾大王=皇子之 御門乎」と解して、前半部を、我が大君である高市皇子の御門を(私、
人麻呂は)神宮に飾り奉りました、と訳すこともできよう。
F 尽きぬ惜別の辞を遮り 百済の原から 葬送し (麻裳よし)城上宮を 常宮(霊所)に
厳かに設え申し上げると【高之奉而】 高市皇子のなられた神は【神随】 鎮まられました。
▼「奉」の主語かつ話者は人麻呂である。
G しかれども 陛下が【吾大王之】 万世を願い 作られた 藤原宮【香具山宮】は 万世に続きます
天の如く 遠く仰ぎつつ 玉襷を掛けて 皇子をお偲びしましょう。
▼恃みの高市皇子は薨じたが、陛下の藤原宮【香具山宮】は永遠です、と人麻呂は慰める。文脈から
香具山宮は藤原宮である。「天香具山」は舒明天皇以来の故地である。その香具山を目近に臨む藤原
宮こそ香具山宮に相応しい。初の条坊制都城藤原京は唐の模倣だけではない。草壁皇子薨去後の軽
皇子弥栄が込められている。香具山宮は藤原宮である。この歌は高市邸在香具山西麓の根拠たりえ
ない。
H 恐み申し上げます。【恐有騰文】
▼「恐み有りて(奏)文を騰げる」と読取れる。人麻呂はAで切出しHで結ぶ。
この歌を高市皇子顕彰挽歌と解するは錯覚である。歌の主題はGで ある。否、読めば読むほど人麻呂こそは、この葬儀を司る「ひじり」と思わざるを得ない。高市皇子の棺の前で、人麻呂自ら第37~85句を含む神送りの詞を
詠じた。持統天皇は殯宮(ケガレ)へ出御は叶わぬ身である。現代においても桂宮、高円宮の薨去に際し、今上陛下は葬儀に出御されない。臣高市を自ら見送っ
てやりたかったはずである。この歌は、ひとり藤原宮(香具山宮)で高市皇子殯宮・葬送の成行きを見守る持統天皇への、人麻呂の慰めと殯宮葬送報告歌である。
因みに、草壁皇子は淨之宮に早逝し、今度こその願いを込めた藤原宮に文武天皇も早逝し、平城京に聖武男系(天武皇統)は断絶した。吉野に誓った六皇子最後の生残りである志貴皇子、その孫桓武天皇の平安京遷都は旧勢力排除の政治的理由だけではない。
5
人麻呂を「哥のひじり」(仮名序。真名序では「和歌仙」)と称したのは貫之である。これに「歌聖」をあてたのは大きな誤解である。「哥をよむひじり」である。
人麻呂は草壁皇子殯宮を執り行った。吉野では天神地祇、吉野縁の天皇、古人大兄、大津皇子を祀って軽皇子無事・即位を祈願した。早朝の阿騎野では神
武、天武天皇、草壁皇子の宮柱を前に、軽皇子無事・即位祈願の祝詞を詠じた。東の空が輝く。祝詞を終えて宮柱を退き、振返ると西の空へ月が渡る。亡き草壁
皇子を嗣いで、神事の御猟に立つ軽皇子の姿が映える(四八~九)。
人麻呂は鎮魂の旅にも出た。熊野で稲飯命と三毛入野命を祀り、印南野で木梨之軽太子を祀り、草壁血統統永続を祈願した。筑紫は天孫降臨地、仲哀・斉明天皇崩御地である。筑紫への目的も祭祀であろう。
人麻呂の歌枕は鎮魂祭祀と関連している。歌は儀式周縁が歌われる。鎮魂の詞が歌であるのは八(本稿二節)だけである。
「柿本朝臣人麿の歌四首(4・四九六~九)」は神武天皇の熊野迂回を歌ったものである。勝算の見えぬ行軍を続ける神武の兵(古にありけむ人、古の人)が九州や吉備あるいは讃岐に残してきた妻、恋人を思う辛さは今の我ら以上であろう(古田前掲書)。7節にて詳述する。
紀伊国にして作る歌四首
黄葉[11]の過ぎに子等と携はり遊びし磯を見れば悲しも (9・一七九六)
潮気立つ荒磯にはあれど行く水の過ぎにし妹が形見とぞ来し (9・一七九七)
古に妹とわが見しぬばたまの黒牛潟を見ればさぶしも (9・一七九八)
玉津島磯の浦廻の真砂にもにほいてゆかな妹が触れけむ (9・一七九九)
古を偲び衣通姫の幻の姿を黒牛潟に探し求めて見るも
(妹とわが見し I tried looking for the Imo.)人気なく寂しい (9・一七九六)
人麻呂は軽太子の身になり、玉津島に行き倒れた衣通姫を追想し、磯や黒牛潟や真砂にそのよすがを求めた。それ故の妹である。
人麻呂の歌ではないが、次も衣通姫を歌ったものである。
黒牛の海紅にほふももしきの大宮人し漁すらしも (7・一二一八)
ももしきの大宮人の踏みし跡所沖つ波来寄せざりせば失せざらましを (7・一二六七)
女の一人旅、夕日の黒牛潟をやつれ彷徨う衣通姫追想歌であろう。「ももしきの(百年以上前の)」大宮人が衣通姫を想起させる。
柿本朝臣人麿羇旅歌(二四九~二五六)に木梨之軽太子の姿を直接は見いだせないが、人麻呂は印南野までの停泊地で、伊予へ流された軽太子鎮魂祭祀を執り行ったであろう。
6
聖武天皇は神亀元年即位するも光明子との間に男子なく、再び血統断絶の危機である。聖武天皇は行幸を重ねた。
神亀元年三月吉野(○)、十月紀伊(◎○)
二年三月三香原(※)、五月吉野(※◎○)、十月難波(◎)
三年十月印南野(◎○)
四年五月三香原
五年難波(※)
(※続紀に記事なし、◎赤人従駕歌、○人麻呂の歌枕と重なる)。
「哥をよむひじり」赤人は従駕し、皇子誕生祈願鎮魂の祭祀を執り行った。
四年九月基親王が誕生した。 詔曰、朕頼神祇之祐、蒙宗廟之霊、久有神器、新誕皇子。(続紀)
紀伊行幸では玉津島之神(衣通姫)と明光浦之霊(五瀬命)が手厚く祀られた。衣通姫は兄軽太子を追って伊予へ向い、玉津島に行倒れた。二人が伊予で再会し共に自害したとするのは誤読[12]である。
神亀元年甲子冬十月五日、紀伊国に幸しし時、山部宿禰赤人の作る歌一首 短歌を并せたり
やすみしし 我ご大君の 常宮と 仕へまつれる 雑賀野ゆ 背向に見ゆる 沖つ島
清き渚に 風吹けば 白波騒き 潮干れば 玉藻刈りつつ
神代より 然そ尊き 玉津島山 (6・九一七)
反歌二首
沖つ島荒磯の玉藻の潮干満ちて隠ろひゆかば思ほえむかも (6・九十八)
若の浦に潮満ち来れば潟を無み葦辺をさして鶴鳴き渡る (6・九十九)
「我ご大君の」は主格である。また、玉津島離宮と常宮は別物である[13]。常宮とは玉津島之神・衣通姫の社である。次の記事に照らし合せると、祭祀の対象が明確になる。
造離宮於岡東。(中略)又詔曰、登山望海、此間最好、不労遠行、足以遊覧。聖武天皇や赤人は東麓の離宮から天神山【岡】に登った。ここから雑賀野に背を向け南の海を望めば、 沖つ島(奠供山)がよく見渡せる【此間最好】。沖つ島の衣通姫の常宮へ足を運ばずとも遙拝で足りる【不労遠行 足以遊覧】。目を転ずれば和歌浦を挟んで名 草山、その東端の竈山は五瀬命の陵墓。墓守を配し荒穢なく、年二回玉津島之神(衣通姫)と明光浦之霊(五瀬命)を奠れと命じた。
故改弱浜名、為明光之浦。宜置守戸勿令荒穢。
春秋二時、差遣官人、奠祭玉津島之神・明光浦之霊。 (続紀)
私訳を掲げる。
聖武天皇が 衣通姫の常宮(霊所)として 仕え奉る
雑賀野に 背を向けて(天神山から)見る 沖つ島
清き渚に 風吹けば 白波騒ぎ 潮干けば 玉藻が刈り続けられてきた
神代から かくも尊い 玉津島山 (九一七)
赤人は、満ち来る潮に隠れる玉藻に衣通姫の死を思い(九一八)、鶴が音に軽太子の叫び聞いた(九一九)。天飛ぶ鳥も使ぞ鶴が音の聞えむ時は我が名問はさね(允恭記)。
吉野、印南野行幸も鎮魂が目的である。
山部宿禰赤人の作る歌二首短歌を并せたり
やすみしし わご大君の 高知らす 吉野の宮は 畳づく 青垣隠り 川波の 清き河内そ
春べは 花咲きををり 秋されば 霧立ち渡る その山の いやますますに この川の 絶ゆること無く
ももしきの 大宮人は 常に通はむ (6・九二三)
反歌二首
み吉野の象山の際の木末にはここだもさわく鳥の声かも (6・九二四)
ぬばたまの夜の更けゆけば久木生ふる清き河原に千鳥しば鳴く (6・九二五)
(神亀二年五月行幸歌。第二首九二六、七は略)
長歌は人麻呂の踏襲である。昼は木の間に鳴き騒ぐ鳥の声に、祭祀を終えた夜は静寂を破りしば鳴く鳥の声に、悲運の古人大兄、大津皇子の霊の叫びを赤人は感じ取った。
山部宿禰赤人の作る歌一首短歌を并せたり
やすみしし わご大君の 神ながら 高知らします 印南野の 大海の原の荒𣑥の 藤井の浦に
鮪釣ると 海人船散動き 塩焼くと 人そ多にある 浦を良み 諾も釣はす 浜を良み 諾も塩焼く
在り通ひ 見さくもしるし 清き白浜 (6・九三八)
(神亀三年十月の歌 反歌三首略)
後にも先にも例のない印南野行幸で、聖武天皇自ら鎮魂するは軽太子である。「やすみししわご 大君が 軽太子の御霊【神ながら】のために 祭殿を建てられた【高知らせる】 印南野」の風景を赤人は歌った。その足で赤人は辛荷島を過ぎ(九四二~ 五)、伊予へ赴き軽太子を鎮魂したのであろう。
7
人麻呂は「石見のひじり」であった。長短歌組なす石見相別歌群は短歌を「反歌」と記す[15]。持統五年以前の歌であり、不比等の命で人麻呂が石見を旅立つ時の歌である。
人麻呂は近江に出迎えた黒人(三二~三、三〇五)、奧麿(二六五)、垂麿(二六三戯れ歌)らと荒都を過ぎ(二九~三一、二六六)、宇治(二六四、一七
九五)を経て上り来た。殯宮後も都に留まり、軽皇子無事・即位祈願の従駕や旅に赴いた。高市皇子、明日香皇女殯宮も執り行った。日々祭祀、広瀬竜田も祀っ
た。(黒人らは不比等の、置始東人は弓削皇子の、河辺宮人は誰某のひじり、あるいは私的用人であろう。)
文武天皇即位、大宝元年首皇子誕生により人麻呂は任を終えた。二月大行天皇吉野行幸、六月太上天皇吉野行幸、九月大行、太上天皇紀伊行幸は、皇祖への皇子誕生御礼と古人大兄、大津、有間皇子、衣通姫の鎮魂である。
太上天皇吉野の宮に幸しし時、高市連黒人の作る歌
大和には鳴きてか来らむ呼子鳥象の中山呼びそ越ゆなる (1・七〇)
大和へ皇子を授けに鳴き来た呼子鳥はこの象の中山を越え来たのか。
七〇は「皇子を授けに鳴き来た」と解してこそ意味をなす。大宝元年は子宝首皇子に由来する。
有間皇子慰霊が人麻呂最後の仕事である。
大宝元年辛丑、紀伊国に幸しし時、結び松をみる歌一首柿本人麿歌集の中に出づ
後見むと君が結べる磐代の子松がうれをまた見けむかも (2・一四六)
有間皇子の結び松をもう見ることもあるまい。任は終えた。
三河行幸を前に、不比等は丹比真人某を添えて人麻呂を石見へ帰した。人麻呂はわが家を目前に 客死した。真人某は人麻呂を野辺に葬り、妻依羅娘子に人麻呂の臨終を伝え、臨死自傷歌、依羅娘子作歌、人麻呂歌集を不比等の元へ持帰った。二二七は、都に
あって鄙の荒野に葬られた人麻呂への憐憫、帰したことへの悔恨の念である(鴨山五首)。激情に過ぎるが、泣血哀慟歌に現れる妻は、夫を亡くし生きるため子
を養うため、軽の街に立つ女であろう。
人麻呂登場の石見相別歌群が巻二相聞末尾に位置すること。最後の仕事結松歌が有間皇子との関連で巻 二挽歌冒頭に位置すること。これに続くべき鴨山五首が巻二挽歌末尾に位置し、両者が分断されていること。人麻呂の事績(祭祀と殯宮)が巻一雑歌と巻二挽歌
に分散していること。これらが相俟って人麻呂履歴の見通しが悪いのである。
しかし、根本の原因は、語義や歌の解釈であり、人麻呂は天皇賛美の宮廷歌人という刷込みである。
人麻呂の足跡を人麻呂作歌・歌集歌と関連歌でたどる。 (※は関連歌)
天武八年五月 吉野盟約
天武十五年十月 大津皇子謀反容疑で刑死
持統称政
三年四月 草壁皇子薨去
三年四月~四年 石見送別歌(一三一~一四〇) 人麻呂上京旅立
過近江荒都時歌(二九~三一) 上京途上大友皇子と忍熊王を鎮魂
人麻呂歌一首(二六六) 上京途上近江宮懐古
※近江旧都感傷歌(三二~三) 近江宮懐古(人麻呂出迎え黒人の作歌)
従近江国上来時宇治歌(二六四) 上京途上、忍熊王鎮魂
宇治若郎子宮所歌(一七九五) 上京途上、若郎子鎮魂
草壁皇子挽歌(一六七~九)
持統四年正月 持統天皇即位
四年九月 ※紀伊行幸従駕、川島皇子作歌(三四~五) 有間皇子鎮魂
四年~五年 吉野行幸歌(三六~九) 天神地祇・皇祖祭祀と
古人大兄・大津皇子鎮魂
六年 伊勢行幸留守居歌(四〇~四二) 軽皇子無事祈願行幸
七年 安騎野歌(四五~九) 軽皇子無事祈願と即位への示威
七年~八年 ※藤原宮役民歌(五〇)
九年頃 ※志貴皇子遷居歌(五一)
九年頃 ※藤原宮御井歌(五二~三)
十年 高市皇子挽歌(一九九~二〇一)
十一年八月 持統譲位/文武即位
文武三年正月 ※太上天皇難波行幸四首(六六~九) 孝徳天皇鎮魂
大宝元年正月~三月 首皇子(聖武天皇)誕生
元年三月 不比等正三位叙位
元年六月 ※吉野行幸呼子鳥歌(七〇) 皇祖へ首皇子誕生御礼と
古人大兄・大津皇子鎮魂
元年九月 ※太上天皇紀伊行時歌(五四~五) 首皇子誕生御礼と有間皇子・衣通姫鎮魂
紀伊国作歌四首(一七九六~九) 首皇子誕生御礼と有間皇子・衣通姫鎮魂
紀伊行幸結松歌(一四六) 人麻呂最後の仕事/退任、帰郷
元年九月~二年十月 臨死自傷歌(二二三) 人麻呂我家を目前に客死
二年十月 三河行幸(五六~六一) 上皇、壬申の乱馳参三河豪族労い行幸
二年十二月 持統上皇崩御
「柿本朝臣人麿の歌四首(4・四九六~九)」が上記年表のどこに入るかは判らないが、一言触れておく。
明日の命さえ判らぬ苦難の行軍、勝算の見えぬ行軍に絶望し、自ら熊野灘に投じた稲飯命、三毛入野命を鎮魂に人麻呂はやってきたのである。
嗟乎 吾祖則天神 母則海神 如何厄我於陸 復厄我於海乎
我母及姨並是海神 何為起波瀾 以灌溺乎 (紀)
柿本朝臣人麿の歌四首
み熊野の浦の浜木綿百重なす心は思へど直に逢はぬかも (4・四九六)
古にありけむ人もわがごとか妹に恋ひつつ寝ねかてず (4・四九七)
今のみの行事にあらず古の人そまさりて哭にさへ泣きし (4・四九八)
百重に来及かぬかもと思へかも君が使の見れど飽かざらむ (4・四九九)
第二、三首は、妻恋しさ、先行きの見えぬ不安と恐怖にさいなまれる神武の兵たちを歌ったものである。しかし、なぜ神武の兵たちの行軍と直接関係のなさそうな歌(四九六、四九九)に挟まれる形で置かれているのか。逆に言うと、同じ属性を持つ第一と四首が、別属性の第二、三首によって分断配置されなければならないのか。
私の答えは一つ。人麻呂自身が石見に妻を残して上京した単身赴任の身の上なのである。
私訳を添える。四首で一つの物語をなしているのである。四九六~四九八を下記のように解釈すると、四九九の訳が自然と涌い来るのである。
熊野の浦に群生する浜木綿に石見の妻を思えど(石見の人麻呂の家は海辺なのであろう)、今は会うことは叶わない。人麻呂単身赴任説を首肯すれば、ことは七夕歌(巻10・一九九六~二〇三三)に及ぶ。
神武の兵たちもきっと私と同じ思いだろう、妻恋しく寝付かれないのは。
今の私の妻恋しさなどとるにたらない、、神武の兵たちはどれほど妻を恋いむせび泣いたことか。
(石見の妻から)百通も届いたかのように、飽くことなく幾度も便りを読返す。
人麻呂は妻からの便りを携え熊野に向ったのか。あるいは、帰郷してから便りを読返したのか。判定はしがたい。
8
[^1] | 古田武彦(『古代の霧の中から』ミネルヴァ書房 2014-8 復刊 http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/jfuruta.html にて閲読可)をもとに、筆者は近江荒都歌を次のように解する。 二九は大友皇子の悲劇を歌う。歌中の「ももしきの大宮処」は二六代前の仲哀天皇志賀高穴穂宮跡である。宮跡に天智政庁近江宮が作られた。近江宮は,、壬 申の乱で荒廃し、穴子は再び廃墟となった。天智天皇は大津に新宮を造営中に崩御した。これより大津新宮は殯宮に転用。近江宮は引続き大友政庁として存続し た。近江宮と大津宮(錦織遺跡に焼け落ちた形跡はない)は別個の宮である。 反歌は大友皇子に先立つ忍熊王の悲劇を歌う。三〇は忍熊王不帰の辛崎出陣(辛崎は戦場にならなかったが、ここから出陣した忍熊王の船は遂に戻らなかっ た)を歌い、三一は忍熊王の宇治敗北と近江敗走入水を歌い、二六四は忍熊王亡骸の宇治流着を歌う。二六六は二九と同時作歌。吉備津采女挽歌に忍熊王敗走を 思わせる反歌が付される理由は不明。 |
[^2] | ①同様な語に「宮柱 太敷奉(1050)」がある。これは聖武天皇が神武天皇の宮柱を恭仁京に太敷き奉ったのである。冒頭の「明津神 吾皇」は、「吉野秋津乃野邊神=神武天皇」である。第37句の大王は聖武天皇。皇と大王の書分けは慎重に取扱われるべきである。 ②「宮柱布斗斯理」も「宮柱 太敷く」と同じ意味である。通行本は誤読である。 唯、僕住所者如天神御子之天津日継所知之登陀流天之御巣而、於底津石根宮柱布斗斯理、 於高天原氷木多迦斯理而、治賜者・・・(記・国譲り 句点(唯、)筆者) これは、「大国主が、国を譲る代りに自分のために宮を立ててくれ」と解されているが、誤解である。 「わが住処は、天神の子が世を継ぐにトダル天の御巣の如くであるから、ここに高天の原の神々と交流する宮柱を盤石に立て、高天原に通じる千木を建てて統治されよ。唯それだけが望みだ。さすれば・・・」。 大国主は邇邇芸命の出雲降臨を望んだのである。ニニギが筑紫に降臨した理由は不明。 |
[^3] | 船出は旧暦二~三月。満月(午後六時頃) や下弦の月(午前零時頃)を待っての船出なら船は寒海を一晩中漂うことになる。下弦以降の月に十分な明るさはない。約三、四時間後の日の出を待つのが合理
的である(梅原猛『さまよえる歌集』)。ならば「月待てば」は、引潮と四時頃の上弦の月の入りである。この船出は引潮と闇に紛れた脱出である。月に一度あ
るなしの機会を待って祭祀は行われた。それ故の熟田津二ヶ月逗留である。 |
[^4] | 石根許其思美(四一四)、磐根己凝敷山(一一三〇)、 石金之凝木敷山(一三三二)、石根乃興凝敷道(三二七四)、石根之許凝敷道(三三二九)、多知夜麻・・・許其志可毛(四〇〇三)に表記・用法に揺れはな
い。四一四と四〇〇三は叙述語。他は連体修飾語。これらと【極此疑】を同列には扱えない。 |
[^5] | 「ももしきの」が「百年以上前の、大昔のと思われる例を挙げておく。 ①ももしきの大宮人(九二三)、ももしきの大宮所(一〇〇五)は、神武・応神天皇以来の吉野縁の代々の大宮人、大宮所である。 「②ももしき(九代前の纏向日代宮)の大宮人も・・・酒盛したであろうか、今日の我らのように」(雄略記)。景行~雄略平均82歳(記)。暦の上では百年を超える。 ③天智天皇(主格)が 畏くも(尊崇する何世も前の大宮人Xの)御陵に仕え奉る山科鏡山に 額田王らは天皇快癒祈願するが 天智天皇の訃報 が届き その夜も翌日も泣き暮れる 泣いていても仕方ない 何世も前の(ももしきの)大宮人Xと別れて近江へ戻ろう 今後を考えよう(一五五)。「別れな む(連語)」は決意と周囲への呼びかけ。Xは正史に未見の大宮人。 ④桓武天皇から四百年か(ももしきや) 古き軒端に朝廷の往時を偲ぶ 桓武天皇以来の平安京朝廷政治は 思い起せば 蘇我氏から実権を取戻した天智天皇の昔に遡ることよ(続後撰一二〇五) |
[^6] | 一八〇七、四〇九四の「遠き代」は明らか に過去を指す。次も過去を指す。「永き代に 標にせむと 遠き代に(遠い昔 悲劇が起った時に) (後々まで)語り継がむと(発意し) 処女墓 中に造り
置き(一八〇九)」と解する。「遠き代に」を「遠い将来」と解するは早計ある。 |
[^7] | 次の神随も「死してなる神」である。 ・・・天宮に 神随(弓削皇子のなりし神)は 神と鎮まられているので・・・ (二〇四) 王(オホキミ) (弓削皇子)は死して神となられたので天雲奥深く 隠れられている(二〇五) なお、二三五、同左注歌、四二六〇、四二六一は「オホキミは死して神となられ各々の地を御陵とされている」と解する。今は詳しく述べる余裕はないが、二四三皇=舒明天皇、二三五題詞天皇=持統天皇、本文皇=雄略天皇、左注歌王=忍壁皇子、四二六〇皇=仲哀天皇、四二六一大王=倭建命と考えている。皇と王の違いに留意すべきである。 |
[^8] | 二五は天武自身の吉野入り直接回想。二六は、大津又は高市皇子の追和間接回想(陛下は辛い思いで吉野入りされたのですね)であろう。二八は車駕から発した「あら、もう夏ね」を傍らの者が書留めた歌であろう。 |
[^9] | 中村幸彦他編『角川古語大辞典』は三九の「神ながら」を名詞の例とする。 |
[^10] | |
[^11] | 『大系』を見る限り「葉之過去子」とする写本はないが、「葉之→黄葉之」の改訂はあり得ても、逆の可能性は低い。一七九六は「葉之過去子等」であった可能性もある。即ち、「遠き世の過去りし子と」ではなかろうか。 |
[^12] | 古事記は次のように記す。 故、後亦不堪恋慕而、追往時、歌曰、 君が往き日長くなりぬ・・・ 故、追到之時、待懐而歌曰、 隠り国の 泊瀬の山の 大峡には 幡張り立て さ小峡には 幡張り立て 大峡にし なかさだめ る 思ひ妻あはれ 槻弓の 臥やる臥やりも 梓弓 起てり起てりも 後も取り見る 思ひ妻あはれ 又歌曰、 隠り国の 泊瀬の河の 上つ瀬に 斎杙を打ち 下つ瀬に 真杙を打ち 斎杙には 鏡懸け 真杙には 真玉懸け 真玉如す 吾が思ふ妹 鏡如す 吾が思ふ妹 ありと言はばこそに 家にも行かめ 国をも偲はめ 如此歌、即共自死。(地は原文表記) 「追往」、「追到之時」 に二人の再会を見るのは誤読である。魔除の槻弓・梓弓に旅の無事を祈ったのに、妻の死が傷ましい(第二首)。真玉、鏡に我が帰りを祈る妻があればこその帰 郷の念。だが妻はもうこの世にいない(第三首)。待ち続けた胸中を斯く歌って絶望のあまり、共に自らも命を絶った(即共自死)。「追到之時」とは、軽太子が「亡き妻を追到之時」である。 |
[^13] | 坂本信幸『赤人の玉津島従駕歌について』大谷女子大学国文Vol.15,1980-12 |
[^14] | 寺川眞知夫『歌人人麻呂の背景』上代文学 99号2007年11月 後世のことではあるが、鎮魂祭に治部省官吏が琴弾、笛工、歌女を率いて参列した。 |
[^15] | 稲岡耕二「人麻呂『反歌』『短歌』の論」(『万葉集研究第四集』塙書房昭和48年) |
[^16] | 次も祭祀にまつわる歌である。一、二、三、四(巡狩、 地鎮)。十二(対象不明)。七(若郎子)。九~十一(有間皇子)。五、六、二二〇~二(対象不明)。二三、二四(続麻王)。三四、三五(有間皇子)。ま
た、七、八左注(額田王四首あり云う)、九、一五五などから額田王は巫女的存在であろう。 |
[^17] | 伊藤博『萬葉集の構造と成立下』 九章一節 塙書房 昭和49年 |
[^18] | 注16書 九章三節 |
[^19] | 伊藤博「萬葉集の成り立ち」(『萬葉集釋注十一別巻』集英社一九九九年)及び注16書上下全般 |
[^20] | 高官大友卿常陸来訪(一七五三~四、一七八〇~一)は「ひじり」赤人の品定めか。 |
[^21] | 赤人は三島方面から田子の浦(蒲原ではない)へ向った。空を仰げば、終日白雲が富士や陽を遮り、夜は月明りも見えず雪も降出したようだ。囲炉裏端で宿の亭主が語りかける。 「都へ往くかね、今日は雪降りだが明日は晴れる、絶景だ」 ならば都人に語り聞かせよう(三一七)。 翌朝は一転快晴、節穴や隙間から差込む光に客舎を飛出し(うち出でて)、田子の浦から(田子の浦ゆ)見れば、朝日に輝く白い富士。嗚呼真っ白だ(真白き衣だ)、やはり昨夜は雪だったか【真白衣 不尽能高嶺尓 雪波零家留】(三一八)。 昨日との対比と感動の歌である。 たごの浦に打出でてみれば白妙のふじの 高ねに雪はふりつゝ (新古今六七五) 太古から富士の高嶺に雪は降積ってきた(雪はふりつゝ)。田子の浦に出でて見る白妙の富士はその悠久の姿だ。 三一七・新古今六七五ともに、富士の実景を歌ったものである。 |