久邇京遷都の歌
「咲く花の色はかはらずももしきの大宮人ぞ立ち易りける」


2012年6月17日公開

  これまで、枕詞「ももしきの」が「百年以上前の昔の、大昔の」を意味していると思われる例を5つあげてきました(「ももしきは百石城か その1,その2」)。 6例目として久邇京遷都の歌をとりあげます。

 天平12年(740)12月、聖武天皇は約30年続いた平城京から久邇京へ遷都しました。 遷都と造営が並行して行われています。 ところが、天平15年(743)には造営は中止されて、聖武天皇は天平16年(744)2月には久邇京を放棄して難波へ遷都しました。

 万葉集6・1047から1061には、田邊史福麿による久邇京遷都の一連の歌があります。 ここには枕詞「ももしきの」が付されぬ大宮人・大宮所(1061を除く)が存在します。
 まず大宮人が立ち去りし後の荒廃した平城京の歌、続いて新都久邇京の建設を祝う歌、その永続を願う歌が詠まれ、最後に放棄され荒れ果てた久邇京を悲しむ歌が続いています。
 通説の「多くの石を築いて作った城(キ)」の意味なら、枕詞「ももしきの」をつけて新都の宮殿を讃えることこそ相応しいはずです。 しかし、1061を除いて大宮人や大宮所に「ももしきの」という枕詞は付されていないのです。

 さっそく歌を見てみます。

     寧楽の故りにし郷を悲しびて作る歌一首 短歌を并せたり
やすみしし わご大君の 高敷かす 倭の国は 皇祖の 神の御代より 敷きませる 国にしあれば 生れまさむ 御子のつぎつぎ 天の下 知らしいませと 八百万 千年をかねて 定めけむ  平城の京師は かぎろひの 春にしなれば 春日山 三笠の野辺に 桜花 木の晩こもり 貌鳥は 間なく 数鳴く 露霜の 秋さり来れば 射駒山 飛火が嵬に 萩の枝を しがらみ散らし さ男鹿は 妻呼び響む 山見れば 山も見が欲し 里見れば 里も住みよし もののふの八十伴の男の うち延へて 思へりしくは 天地の 寄り合ひの限 万代に 栄え行かむと 思へりし 大宮すらを 恃めりひ 奈良の都を 新世の 事にしあれば 大君の 引のまにまに 春花の うつろひ易り 群鳥の 朝立ちゆけば さす竹の 大宮人の 踏み平し 通ひし道は 馬も行かず 人も往かねば 荒れにけるかも    (6・1047)   
  反歌二首
立ちかはり古き都となりぬれば道の芝草長く生ひにけり    (6・1048)
なつきにし奈良の都の荒れゆけば出で立つごとに嘆きし益る  (6・1049)

  久邇のあたらしき京を讃むる歌二首 短歌を并せたり
現つ神 わご大君の 天の下 八島の中に 国はしも 多にあれども 里はしも 多にあれども 山並みの 宜しき国と 川波の 立ち会ふ郷と 山城の 鹿背山の際に 宮柱 太敷き奉り 高知らす 布当の宮は 河近み 瀬の音ぞ清き 山近み 鳥が音響む 秋されば 山もとどろに さ牡鹿は 妻呼び響め 春されば 岡辺もしじに 巌には 花咲きををり あなおもしろ 布当の原 いと貴 大宮所 うべしこそ わご大君は 君ながら 聞かし給ひて さす竹の 大宮此処と 定めけらしも    (6・1050)
  反歌二首
三日の原布当の野辺を清みこそ大宮所定めけらしも    (6・1051)
山高く川の瀬清し百世まで神しみ行かむ大宮所 (6・1052)

わご大君の 神の命の 高知らす 布当の宮は 百樹茂き 山は小高し 落ち激つ 瀬の音も清し 鶯の 来鳴く春べは 巌には 山した光り 錦なす 花咲きををり さ牡鹿の 妻呼ぶ秋は 天霧らふ 時雨を疾み さ丹つらふ 黄葉ちりつつ 八千年に 生れつがしつつ 天の下 知らしめさむと 百代にも 易るまじき 大宮所    (6・1053)
  反歌五首
泉川ゆく瀬の水の絶えばこそ大宮所移ろひゆかめ    (6・1054)
布当山山並み見れば百代にも易るまじき大宮所 (6・1055)
    (以下三首略)

  春の日に、三香の原に荒れたる墟を悲しび傷みて作る歌一首 短歌を并せたり
三香の原 久邇の都は 山高く 川の瀬清し 住みよしと 人は言へども 在りよしと われは思へど 古にし 里にしあれば 国見れど 人も通はず 里見れば 家も荒れたり 愛しけやし 斯くありけるか 三諸つく 鹿背山の際に 咲く花の 色めづらしく 百鳥の 声なつかしく 在りが欲し 住みよき里の 荒るらく惜しも (6・1059)
  反歌二首
三香の原久邇の京は荒れにけり大宮人の移ろひぬれば    (6・1060)
咲く花の色はかはらずももしきの大宮人ぞ立ち易かはりける (6・1061)
                        ( 『日本古典文学大系 万葉集 岩波書店』   歌中赤字および青字強調筆者 )

 田邊史福麿にとって、この遷都は百年以上の昔の出来事ではありません。 現在の出来事なのです。 放棄された久邇京には2年後に山城国分寺が設置されますから、1059、1060、1061は744年から746年の春に作られているはずです。

 「ももしきの」が「百年以上前の昔の、大昔の」という意味であるなら、1、2年前に放棄された久邇京に対して、枕詞「ももしきの」が付されていないことは当然なのです。
 1061はどのように解釈すべきでしょうか。 1061以外の長歌や反歌中の大宮人・所は今現在の久邇京を指していることは明白です。 1061の大宮人だけは「ももしき」=「百年以上前の、大昔の」という過去を示す語を伴っています。 そのことふまえれば、大意は次のようになります。

 数百年も前から大宮人は宮を作っては、立ち去っていった。その跡には荒れた宮だけが残される。 だが季節が来れば、いつの時代のどの廃墟にも同じ色の同じ花が咲く。 変わらぬものは花の色だけだ。

 神武以来、一世一宮でした。 これを最初に崩したのが景行天皇です。 代替わり、政変、為政者の気まぐれによって遷都が行われ、そのたびに廃墟ができます。 1061はそれらに重ね合わせて、荒れ果てた久邇京を偲んでいるのでしょう。



 こう考えましたが、何か腑に落ちません。 何回も読み返してみると1060と1061が新旧対照をなしているような印象を受けます。

 1060は聖武天皇の大宮人が立ち去ったと歌い、1061は、三香の原には「ももしきの」=「百年以上前の」大宮人の住まいがあったと歌っているかのようです。 かつての大宮人が去った時に咲いた花と同じ色の花が今また咲いた。 主は変われど咲く花の色は昔と変わっていない。 変わらぬものは花の色だけだ、と歌っているようなのです。

  三香の原はすばらしい土地です。 このような土地が聖武天皇の時代まで手つかずの未開の地だったとは考えられません。 古くから人が住み着いていたと思います。
 記紀に残らぬその時々の大宮人が三香の原の主のとなっては立ち変わっていったのです。 そして聖武天皇も今また立ち去りました。 1061は聖武天皇と対照しつつ、かつてここを所領していた「ももしきの大宮人」=「遠い昔大宮人」をうたっているように思えます。

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