「ももしき」は百石城か その1
2012年5月29日公開


<謝 辞 >

 万葉集の語彙検索には「山口大学万葉集検索システム」を利用しました。
   山口大学教育学部 吉村誠教授(検索文作成)
   山口大学教育学部表現情報処理コース卒業生(検索システム作成)
   松尾圭子氏、新原久仁子氏、白川千容氏、村上香奈、香川征広氏、能美朋子氏 
 各氏に御礼申し上げます。


1. はじめに本サイト「ももしきの迷路」では、亭主の百石城が枕詞「ももしきの」の意味について論じています。

 1  万葉集、古事記に出てくる枕詞「ももしきの」のうち、いくつかは「百年以上前の昔の、大昔の」という意味である。
 2  「神ながら、神さぶ」の意味は何か。  (別稿で述べる予定)
 3 「宮柱 太敷く」の意味は何か。      (別稿で述べる予定)

の三点について論じています(予定です)。 1を追求してゆくなかで 2、3を明らかしたいと思っています。


2. 「ももしきの」はどこにある

1  万葉集中、「ももしきの」を含む歌は二十首あります。すべて、「大宮処」、「大宮人」に掛かる枕言葉です。
2  古事記雄略天皇の「三重の采女」説話の中にあります。「大宮人」に掛かる枕詞です。
 3  古今和歌集にあります。
   1000  山川の音にのみ聞くももしきを身をはやながら見るよしもなし (伊勢)
 4   紫式部集にあります。  いどむ人あまたきこゆるももしきのすまひうしと思い知るやは
 5   新古今和歌集に三首あります。
  104    ももしきの大宮人はいとまあれや桜かざして今日も暮しつ (山辺赤人)
  1444  ももしきに変らぬものは梅の花折りてかざせるにほひなりけり (源公忠朝臣集)
  1719  ももしきの内のみつねにい恋しくて雲の八重立つ山は住み憂し (如覚)


3. 「ももしき」はどこにある
 6  源氏物語にあります。
  百敷に行きかひ侍らん事は、まして、いとはゞかり多くなむ (桐壺)
  百敷に行きかふ人の聞くばかりやは              (末摘花)
 7  狭衣物語にあります。
  同じももしきのうちながらも、弘徽殿にはことに参り給ふこともし給はぬを
 8 続後撰和歌集1205  というより百人一首百番としてほうが有名です。
  百敷や古き軒端のしのぶにもなほあまりあるむかしなりけり(順徳院)


 まだまだあると思いますが、素人としてはここまでです。


4. 「ももしきの」は「百年以上前の昔、大昔の」である

  「ももしきの」=「百年以上前の昔の、大昔の」と思える例を挙げます。 実際、そのような例が存在するのです。万葉集中のうち、いくつかの「ももしきの」、および古事記三重の采女の説話の「ももしきの」は「百年以上前の昔の、大昔の」を意味しているのです。

 ももしき【百敷・百石城】  [名](枕詞「ももしきの」から転じて皇居・宮中の意)「に行きかひ侍らむことは、ましていと憚り多くなむ」(源・桐壺)
  【百敷の・百石城の】  [枕詞](多くの石を築いて作った城(キ)の意か)「大宮」にかかる。「-の大宮人は」(記謡・一〇三)

 『中田祝夫編 新選古語辞典 小学館』によれば上の通りですが、とりあえず四つ例を挙げます。


例1.三重の采女

 古事記雄略記に次のような説話が載っています。 百枝槻の下での酒宴で、三重の采女は盃に槻の葉が浮いていることに気づかず、雄略天皇に酒を献じ怒りをかい、首を刺されようとした。とっさに、采女は機転をきかせ、纏向日代宮の槻の枝振りを歌います。 その歌で天皇は怒りを鎮め、采女は難を逃れたばかりか、禄を下賜されたのです。

纏向の 日代の宮は 朝日の 日照る宮 夕日の 日光る宮 竹の根の 根足る宮 木の根の 根延ふ宮 八百土によし い杵筑きの宮 真木栄く 檜の御門 新嘗屋に 生い立てる 百足る 槻が枝は 上つ枝は 天覆へり 中つ枝は 東を覆へり 下杖は 鄙を覆へり 上つ枝の 末葉は 中つ枝に 落ち触らばへ 中つ枝の 枝の末葉は 下つ杖に 落ち触らばへ 下杖の 枝の末葉は 在り衣の 三重の子が 捧がせる 端玉盞に 浮きし脂 落ちなづさひ 水こをろこをろ に是しも あやに畏こし 高光る 日の御子 事の 語り言も 是をば  (『新編日本古典文学全集 古事記』 小学館) 

 この歌で、怒りを鎮めた雄略天皇は次のように歌います。

百石城の 大宮人は 鶉鳥 領布取り懸けて 鶺鴒 尾行き合へ 庭雀 群集り居て 今日もかも 酒水漬くらし 高光る 日の宮人 事の 語り言も 是をば  (同書  原文では「毛々志紀能」  歌中傍線筆者)

 同書の注は雄略歌中の「ももしきの」を「多くの石で築いた城柵の意で、大宮にかかる枕詞」とだけ記し、単なる枕詞と処理し、それ以上の注意を払っていません。 その上で、「酒水漬くらし」に次のような訳と注を付しています。

   <百石城の>大宮人たちは、鶉のように、領布懸けて、鶺鴒が尾を振るように、長い裾をひいて行き交い、庭の雀のように大勢集り群がっていて、今日もまあ酒盛りをしているらしい。 (以下略 傍線筆者)
   廷臣たちが天皇の下に安んじていることの表現。酒びたりになると過大な表現をとったので、ラシ(ママ)を付けて断定を避けた言い方になっている。

 注は誤解です。歌中の「ももしきの大宮人」を雄略天皇の廷臣、長谷朝倉宮の大宮人と誤解しているのです。 采女は纏向の日代宮の槻の枝振りを引いて弁明しています。 それを受けて雄略天皇は「百石城の大宮人は」と歌ったのです。 しかも末尾で、「高光る 日の宮人 事の 語り言も 是をば」と日の宮人、即ち日代の宮の宮人に呼びかけています。
  つまり、「百石城の大宮人」は「景行天皇の纏向日代宮の大宮人」なのです。 「景行天皇の纏向日代宮の大宮人も今日の我らのように酒宴を開いたのだろうか」という意味でなのです。 ラシへの注は全く不要となります。 安本美典氏によれば、古代の天皇の平均在位は一代約十年です。
古今和歌集の仮名序にも、
   かの御時より,この方、としはもゝとせあまり、世はとつぎになんなりにける
とあります。 景行天皇から雄略天皇まで十代です。百年あるか、ないかでしょう。 しかしながら、景行天皇百三十七歳、成務天皇九十五歳、仲哀天皇五十二歳、応神天皇百三十歳、仁徳天皇八十三歳、履中天皇六十四歳、反正天皇七十八歳、允恭天皇七十八歳、安康天皇五十二歳、雄略天皇百二十四歳(記)とされる長寿の時代です。 暦の上では纒向日代宮は長谷朝倉宮の百年以上の昔なのです。
             「 ももしきの」を「百年以上前の昔の、大昔の」と解釈するに無理はないのです。


例2. 近江の歌
        近江の荒れたる都を過ぐる時、柿本朝臣人麻呂の作る歌

玉襷 畝傍の山の 橿原の 日知の御代ゆ 生れましし 神のことごと 樛の木の いやつぎつぎに 天の下 知らしめししを 天にみつ 大和を置 きて あをによし 奈良山を越え いかさまに 思ほしめせか 天離る 夷にはあれど 石走る 淡海の国の 楽浪の 大津の宮に 天の下 知らしめしけむ  天皇の 神の尊の 大宮は 此処と聞けども 大殿は 此処と言へども 春草の 繁く生ひたる霞立ち 春日の霧れる ももしきの 大宮処 見れば悲しも     (一・二九)
反歌
ささなみの志賀の辛崎幸あれど大宮人の船待ちかねつ          ( 一・三十)
ささなみの志賀の大わだ淀むとも昔の人にまたも逢はめやも      ( 一・三一) 
                                                (『日本古典文学大系 万葉集』岩波書店)

  この歌こそは、私が「ももしきの」=「百年以上前の昔の、大昔の」と思うようになったきっかけを作った歌です。はじめにこれを取り上げるべきだったかもしれません。 この歌に関する古田武彦氏の秀逸な解釈がきっかけでした。
 定説では、この歌は壬申の乱で荒れ果てた天智天皇の近江大津宮を悲しみ悼んだものとされています。 しかし、古田氏はこれに異を唱えます。ここで読まれているのは仲哀天皇の皇子香坂王・忍熊王の悲劇であるとしています。

 1  「神武以来、代々、大和に都してきた。だのにな、何を思われたか、この天皇(X天皇)は近江へ都を遷された。」これにぴたり当てはまるのは景行天皇であって天智天皇ではない。
 2  十二代景行天皇は纏向日代宮から近江の志賀高穴穂宮へ都を遷した。その地で景行、成務、仲哀と三代続く。第一次近江京である。
 3  仲哀天皇は近江に香坂王、忍熊王を残し、神功皇后・武内宿禰を伴い熊襲征伐に向かい、香椎宮で死を遂げ る。神功皇后・武内宿禰は新羅遠征を経て近江へ戻る。近江忍熊軍と神功軍の間で後継争いとなる。決戦を前に香坂王は既に事故死。忍熊王は宇治川の戦いで破 れ瀬田へ敗走した。参謀格五十狭宿禰とともに湖に漕ぎ出で入水し最期を遂げる。反歌二首は忍熊王の湖上の悲劇に対応している。
 4  これに対し、第二次近江京は大友皇子の敗死で終結した。大友皇子は山崎で縊死し、天武・持統の前で首実検された。山中の悲劇である。水辺とは無縁である。
 5  武内宿禰は湖に沈んだ忍熊王の亡骸を執拗に探し求め宇治に発見した。古田氏は人麻呂の次の歌に忍熊王の亡骸を見てとる。
  もののふの八十氏川の網代木にいさよふ波の行へ知らずも     三・二四六
 6  二九、三十、三一が直接歌っているのは仲哀天皇の皇子、忍熊王の悲劇である。それに託して大友皇子を悼む二重構造になっている。人麻呂は天武・持統の廷臣である。大友皇子への愛惜を直接表明できなかった。
 
 このような解釈に至らなかったのは、長歌中の「大津の宮」を天智天皇の宮殿と即断したことにあると古田氏は言う。
                                                 ( 『古代の霧の中から』 徳間書店』)

 さらに次のように述べます。
正史である『日本書紀は,天智天皇の宮殿を「近江宮」と記す。

    (天智六年)三月の辛酉の朔己卯に、都を近江に遷す。
   (天智十年)(十一月)丁巳に、近江宮に災あり。大蔵省の第三倉より出づ。
   (天智十年)十二月の癸亥の朔乙丑に、天皇、近江宮に崩ましぬ。癸酉に新宮に殯す。

いずれも近江、近江宮であって、「近江大津宮」ではない。日本書紀成立の720年当時において、

    近江大津宮に天の下知らしめしけむ天皇=天智天皇という等式は成立していない。

にもかかわらず、歌中の近江大津宮をもって天智天皇の大宮と判断したのは妥当ではない。
        (同書  なお、昭和五十九年10月 万葉学会(愛媛県松山市 子規記念講堂)で研究発表されている。)

 この後、近江大津宮について縷々説明があるのですが、その説明には私には理解しにくい部分があります。 
ただ、古田氏の歌の解釈1~6を読んで、「ももしきの大宮処」とは「志賀高穴穂宮」と考えるようになりました。

 私の考えを述べてみたいと思います。古田氏の説から若干逸脱するので、私の考えとしました。
古田説を私なりにたどると、氏の二重構造説の輪郭が薄くなってくるのです。29は、壬申の乱の大友皇子の悲劇を
直接歌っているように思えます。 歴史は繰り返す。反歌二首は、大友皇子に先立つ忍熊王の悲劇があったと
歌ったものだと思います。 

 1  景行天皇は志賀高穴穂宮へ遷りました。高穴穂宮は景行・成務・仲哀と三代続き仲哀天皇の皇子忍熊王の死とともに終焉をむかえました。
 2  中大兄は近江へ宮殿を移し、そこで即位しました。その地は高穴穂宮の跡地です。
 3  日本書紀は、その天智天皇の宮殿を「近江」「近江宮」と記したのです。日本書紀天智記には、天智天皇の宮殿に対しては「近江大津宮」という表記はありません。
 4  生前、天智天皇はより港に近い交通至便な大津の地に宮殿を建設ました。これが今日に残る近江大津錦織遺跡なのです。日本書紀はこの大津の宮殿を新宮と表記しました(上掲、天智十年の記事)。
 5  新宮移転前に天智天皇は崩御しました。半年後に壬申の乱が勃発するという緊迫した時期なので、新宮大津宮に殯しました。
 6  近江宮は引き続き政庁として機能したのです。大友皇子や天智天皇の遺臣達は引き続き、近江宮で政治を行ったのです。壬申の乱で荒廃したのは大津宮ではなく、高穴穂宮跡地にあった天智天皇の近江宮なのです。

 後年、荒廃した天智天皇の近江宮を見て、人麻呂は二十九、三十、三十一を詠んだのです。人麻呂は、近江宮を「大津に殯宮がある天皇の 生前の大宮」と いう意味で、あるいは「大津の新宮で政を執ろうとした天皇の 生前の大宮」という意味で、「淡海の国の楽浪波の大津の宮に天の下知らしめしめむ天皇の 神の尊の(生前の)大宮」と称したのです。

 その部分の拙訳を示します。

 淡海の国の 楽浪の 大津宮に 天の下 知らしめしけむ 天皇の 
 近江の国の さざ波の 大津宮に 政を執ろうとした 天皇(天智)の
 
 神の尊の 大宮は ここと聞けども 
 神の尊(となった天智天皇)の 生前の大宮(近江宮)は ここと聞きおよぶが
 
 大殿は ここといへども
 大宮殿は ここというが
 
 春草の 繁く生ひたる 霞立ち 春日の霧れる ももしきの 大宮処
 春草が 生い茂り 霞が立ち 春の日差しに霞む ももしきの 大宮処
 
 見れば 悲しも
 見れば 悲しも

 すなわち、「淡海の国の 楽浪の 大津の宮」と「神の尊の 大宮」は同一ではないのです。 同一であれば、「淡海の国の 楽浪の 大津の宮は 此処と聞けども  大殿は 此処といへども」というだけで十分でなのです。 「ももしきの大宮処」は景行天皇に始まる旧き、由緒歴史ある都、高穴穂宮であり、その跡地に中大兄 は「近江宮」を作ったのです。その「近江宮」が壬申の乱で荒廃したのです。  景行天皇の高穴穂宮は人麻呂の時代を二百五十年以上は遡ります。

「ももしき の大宮処」=「志賀高穴穂宮」=「百年以上前の昔の大宮」なのです。

 一言付け加えます。

 日本史教科書や年表には、「667年、中大兄皇子は京都を近江の大津に遷す」などと、近江大津に宮殿を移したと記されています。 常識中の常識とされているのですが、近江大津宮とした根拠は、この人麻呂の歌でしかないのです。 ところがその人麻呂自身、または万葉集編者が天智天皇の宮殿を近江大津宮ではなく近江宮と認識しているのです。
二九の題詞は、

「過近江荒都時」であって「過大津荒都時」ではない

なのです。これが何よりの証拠です。

 しかも万葉集編者自身も中大兄の遷都先を近江大津宮ではなく近江宮と認識している証拠があります。
 巻第一 目録 雑歌  近江大津宮御宇天皇代  
 巻第二 目録 相聞  近江大津宮御宇天皇代  
目録 挽歌  近江大津宮御宇天皇代  
 巻第一 本編 雑歌   近江大津宮御宇天皇代 [天命開別天皇、謚曰天智天皇] ([ ]内は割注。以下同じ)
 巻第二 本編  相聞  近江大津宮御宇天皇代 [天命開別天皇、謚曰天智天皇] 
本編  挽歌   近江大津宮御宇天皇代 [天命開別天皇、謚曰天智天皇] 

とありますから、ここでは明らかに 近江大津宮御宇天皇=天智天皇 は確実です。 

 ところが後岡本宮御宇天皇代をみると

 巻第一 目録 題詞  中大兄三山御歌一首  
本編 題詞 中大兄[近江宮御宇天皇]三山歌  

となっているのです。中大兄の遷都先を「近江宮」と認識しているのです。  (『日本古典文学大系 万葉集』による)

 さらに、題詞、左注に「近江」「近江の」を含む歌を検索してみます。

  後岡本宮御宇天皇代 [天豊財重日足姫天皇(以下略)]       
 1・13  題詞  中大兄[近江宮御宇天皇]三山歌       
 近江大津宮御宇天皇代 [天命開別天皇、謚曰天智天皇]
 1・17  題詞  額田王下近江國時作歌井戸王即和歌
 近江大津宮御宇天皇代[天命開別天皇、謚曰天智天皇]
 1・29  題詞  過近江荒都時柿本朝臣人麻呂作歌
1・32/33  題詞  高市古人感傷近江舊堵作歌 [或書云高市連黒人]
     (本文)古_人尒和礼有哉 楽浪乃 故京呼 見者悲寸  (_ママ)
     (本文)楽浪乃 国都神乃 浦佐備而 荒有京 見者悲毛
 近江大津宮御宇天皇代[天命開別天皇、謚曰天智天皇]
2・102  題詞  巨勢郎女報贈歌一首 [即近江朝大納言巨勢人卿之女也
藤原宮御宇天皇代[高天原広野姫天皇(中略)尊号曰太上天皇]
2・115  題詞  勅穂積皇子遣近江志賀山寺時但馬皇女御作歌一首
 近江大津宮御宇天皇代[天命開別天皇、謚曰天智天皇]
2・147  左注  一書曰近江天皇聖躰不豫御病急時太后奉獻御歌一首
3・263 題詞  従近江國上来時刑部垂麻呂作歌一首
3・264 題詞   柿本朝臣人麻呂従近江國上来時至宇治河邊作歌一首
3・305 題詞   高市連黒人近江舊都歌一首   (本文))如是故尒不見跡云物呼楽浪乃舊堵呼令見乍本名
4・488  題詞   額田王思近江天皇作歌一首   (本文))君待登 吾戀居者 我屋戸之 簾動之 秋風吹
 6・1017 題詞   夏四月大伴坂上郎女奉拝賀茂神社之時便超相坂山望見近江海而晩頭還来作歌一首
 8・1606 題詞   額田王思近江天皇作歌一首   (本文))君待跡 吾戀居者 我屋戸乃 簾令動 秋之風吹

 この結果から、

  1.  近江を近江大津を略称と見なすことはできません。略称であるなら、大津天皇、大津朝、大津舊堵が一つくらいあってもおかしくはないのです。
  2.  通説の通り、大津に都をおいたのは、天智天皇が最初であるとすると、大津に対し「近江舊堵」と称することは理に適いません。また、『大系』は1・32本文中の「故京」に対し「故(ふる)き京」と読んでいますが、古いだけでなく、歴史ある、由緒ある、懐かしいという意味を込めたとしても、それは大津よりは、高穴穂宮跡 地のほうが相応しいと思います。
  3.  3・305は題詞、本文に舊堵の文字が含まれています。「舊き堵」(『大系』)と読まれています。大津は「舊き堵」に相応しくないように思えます。
  4.  4・488、6・1606をみれば、万葉集編者または額田王は天智天皇を近江宮の天皇であることを認識しています。  
といえます。
 
 さらに、題詞に「近江大津宮」「大津宮」「大津」を含む歌は一首もありません(「大津皇子」を除く)。 加えて、本文に「大津」を含む歌は、ここで取り上げた1・29(淡海の国の楽浪の大津宮)の他に、次の三首しかありません。
藤原宮御宇天皇代[高天原広野姫天皇(中略)尊号曰太上天皇]
   2・218   楽浪の志賀津子らが罷道の川瀬の道を見ればさぶしも
   2・219   天数ふ大津の子が逢ひし日におほに見しかば今ぞ悔しき 
   (以上二首、吉備の津の采女死りし時、柿本朝臣人麿の作る歌一首の反歌)

3・288   我が命の真幸くあらばまたも見む志賀の大津に寄する白波



 確かに、天智天皇は大津に新宮を建設しました。現在、近江大津錦織遺跡として現在に伝わってます。 しかし、そこは日本書紀の記す「近江宮」ではないのです。
 人麻呂が歌う「淡海の国の 楽浪の 大津の宮」を「近江宮」と錯誤したのです。

 われわれは人麻呂の歌を誤解し、我々は何世紀ものあいだ、「ももしきの迷路」をさまよっていたようです。


例3. 順徳院の歌

百敷や 古き軒端のしのぶにも なほあまりある むかしなりけり (順徳院)
拙訳  (桓武天皇から)四百年が経ったのか 古びた軒端に朝廷の往時が偲ばれる 思えば 朝廷政治の始まりは(蘇我氏から実権を取り戻した天智天皇の御代の)はるか昔のことだったことよ

 ここでは、「ももしき」という名詞で使用されています。これを「何百年前の大昔」という意味で使われていると考えると、上記のような拙訳になるのです。
 「百敷や」の「や」はどう考えても領格ではありません。感嘆詞です。順徳院はため息をついているのです。有吉保氏も「や」は間投詞としています(百人一首 講談社学術文庫)。また島津忠夫氏も「や」は詠嘆の助詞としています(新版百人一首 角川ソフィア文庫)。しかるに両氏とも「宮中の」と訳しています。「宮中の」と訳すには無理があります。(「や」を領格として使用したと思われる用例があるから、「宮中の」でよいとする解説をどこかで読んだ記憶がありますが、失念しました。)

 百人一首の巻頭は天智天皇です。そして末尾は順徳院です。 壬申の乱で皇統は天智系から天武系に移ります。 それから約百年後、天武男系が途絶え皇統は天智系に、戻り白壁王(光仁天皇)が即位します。 その子、桓武天皇は天智天皇の曾孫にあたります。 承久の変で、後鳥羽院、土御門院、順徳院が配流され、政治の実権が武家に移るまで、桓武天皇に始まる平安京での朝廷政治は約四百年続きました。この歌は承久の変の5年ほど前につくられたのです。順徳院が偲ぶ御代は、天智天皇にまで遡るのです。

 ここでは、「ももしき」という名詞で使用されています。これを「何百年前の大昔」という意味で使われていると考えると、上記のような拙訳になるのです。

 「ももしき」という古語は巻頭の天智天皇を想起させる装置として働いているとの見解は吉海直人氏がすでに述べています。ただ、氏は「百敷の」は万葉語であり、大宮を導く枕詞として天皇を褒め称える賀の歌に多く使われていた、と考えています(吉海直人『百人一首の新研究』和泉書院)。


例4. ももしきのすまひ

 いどむ人 あまた聞こゆる ももしきの すまひうしとは おもひしるやは     (『新潮日本古典集成 紫式部日記・紫式部集』 新潮社)
 いどむ人 あまたきこゆる もゝしきの すまゐうしとは おもひしるやは     (実践女子大本 紫式部集 『集成』に収録)
 拙訳  相撲節に全国から多くの若者が召されたということだ しかし 大昔の相撲(野見宿禰と当麻蹴早)は気が滅入るほど(凄惨だった)と知っているのだろうか、と思う今宵よ。
 ももしきの相撲=大昔の相撲であるなら、すぐに日本書紀垂仁記の野見宿禰と当麻蹴早の相撲が思い浮かびます。 相撲というより空手のようなものでした。 野見宿禰は当麻蹴早の腰をふみ砕いて殺してしまいます。
 天覧相撲などと都人は興じているが、昔の相撲は気が滅入るほど凄惨だったことを知っているのか、と紫式部は云っているのです。
 奈良・平安時代の宮中での相撲節がどのようのものであったかは、坪田敦緒氏のサイト「相撲評論家の頁」中の「日本相撲史概略」に詳しいので、興味のある方はご覧ください。




 以上、「ももしきの」を「百年以上前の昔の、大昔の」と思える例を提出しました。まだ用例があるのですが、今回はここまでです。


<次回>

  ももしきの大宮人の熟田津に船乗りしけむ年の知らなく (万葉集 3・323) 

に触れる予定です。

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