「ももしき」は百石城か その2
前回、『「ももしき」は百石城か その1」』 で 枕詞「ももしきの」が「百年以上前の昔の、大昔の」と思える例を四つ挙げました。 前回の予告の通り今回は、詞「ももしきの」=「百年以上前の昔の、大昔の」と解釈できる例として熟田津の船出の歌を取り上げます。 例5. 熟田津の船出額田王の歌 この三首の関係がよくわかりません。三二三が直接受けるのは三二二のはずなのに、なぜか飛び越して八を想起してしまいます。 『伊予国風土記』の逸文は、景行天皇が九州遠征途上に、また仲哀天皇が熊曾遠征の途上に立ち寄ったと記しています。 また、聖徳太子も行幸したももあります。これらは記紀に記述はないのです。事実としても、「ももしきの大宮人」を景行天皇、仲哀天皇や聖徳太子とするには、八の左注と内実が合わないので,除外されます。 左注の通り、赤人の歌う船出を斉明七年の百済再興軍の船出としてみます。 赤人は聖武天皇の時代の人なので、この歌の制作年を最大限750年に引き下げても、斉明七年はわずか90年前のことです。 100年に届きません。 720年に日本書紀が成立しているので、史料も十分あるはずです。 その年がわからないほど遠い昔とするには疑問を感じます。 ほぼ百年だから「ももしきの」で近似していると自分に納得させてみても、何か腑に落ちません。 ところが、すべての答えは、38年前(1974年)に梅原猛氏によって用意されていました。 梅原氏の答えから、 「ももしきの」=「百年以上前の昔の、大昔の」 ということができるのに、梅原氏本人も読者も誰もそのことに気づかなかったのです。仮に気づいた読者があっても、深く追求しなかったのでしょう。 梅原氏の著書(『さまよえる歌集』 梅原猛 集英社)をもう少し詳しく紹介します。若干長めになります。 八は月明かりの船出を歌った万葉屈指の名歌とされる。梅原猛氏は通説に対し、次のような疑問を呈しています。 一、「今者許芸乞菜」の読みは強引である。「いまは漕ぎ出でな」の原文は「今者許芸乞菜」なのです。「乞」の読みについて契沖、真淵、岸本由豆流、荷田春満、橘千蔭、鹿持雅澄らによるさまざまな試みを紹介し、金子元臣、次田潤、武田祐吉、斎藤茂吉、澤潟久孝ら注釈者たちが、「乞」を「出」と読むようになった経緯を説明した後、次のような批判を加えています 私は、「乞」を「イデ」と読んで、「出」の意味にとり、原歌を「今は漕ぎ出でな」と読んで、そこから威勢のいい船出の歌を導き出そうとすることに対して疑問を感じざるを得ない。(中略)しかし私のいいたいのは、これを真淵のように「コギコソナ」と読むにせよ、また現代の通説のように、「コギイデナ」と読むにせよ、やはり願望の「乞」の意味は強く残り、「コイデクレ」「コギダシテクレ」という意味で、単なる船出の意味ではないと言うことである。二、夜間出航の不自然さ。 月明かりを待っての夜間の勇壮な船出という解釈に根本的な疑問を呈しています。 昔の航海は夜を避けるのが常識です。 紀貫之が夜に鳴門海峡を渡ったのは海賊を避けるためです。 夜は海賊も出没しません。 なのになぜ夜の船出なのか疑問です。 斉明天皇一行の旧暦1月14日に伊予に到着しました。いつ出発したかは不明だが、博多に到着したのは3月25日です。 百済支援という火急の時に急いだ形跡もなく、わざわざ夜の出発を選んだのか。 しかも、この船出は月の出が条件になっています。月が満月なら月の出は午後6時頃、下弦の月なら午前零時頃です。 そうなると船は一晩中真冬の海に漂ようことになります。 しかも満月の7%程度の明るさしかないのです。 二五、六日の月なら午前二、三時ですが、その明るさは満月の3%程度しかなく、待つに値する明るさはないのです。 それなら夜明けを待つほう合理的です。 いずれにせよ、月を待つ意味がないと梅原氏はいいます。 三、左注の切り捨て
梅原氏は八の作者を左注の通り斉明天皇とした上で、軽太子鎮魂の斉明天皇御製であるとしています。 捕らえられ、伊予に流され、悲憤慷慨の内に自害した軽太子の霊の恨みは深い。 百済再興軍は軽太子の霊の祟りを恐れた。 軽太子の霊は祀られねばならぬ。 江戸幕府討伐軍派遣に際し、朝廷は讃岐に勅使を遣わし、実に700年も前の崇徳院を鎮魂・慰霊しているではないか。 斉明天皇一行が軽太子を鎮魂しない理由はない。 百済再興という火急の時に、二ヶ月も熟田津にとどまっていた理由は何か。 その間に鎮魂・慰霊の神事が執り行われたのではないか。 そしてこの歌は、そのときの御製ではないかとしています。
「熟田津に」。悲劇の皇子は、熟田津の石湯に流されそこで死んだ。 軽皇子の霊は熟田津に止まっている。 「船乗りせむと」。皇子の霊がもっとも求めていたものは、船ではなかったか。 皇子の脳裏には、幻の舟がいっぱい見えていた。 その舟に乗って都へ--吾が愛する妻の元へ帰りたい。 今、待望の舟が熟田津に入ってきた。 さあ、いよいよ出発だ。「月待てば」。皇子の出発は、夜でなければならない。 なぜなら、昼は監視の眼がきびしいから。 夜、月の光の中で、皇子は逃走を試みねばならぬ。 「潮もかなひぬ」。月とともに大切なのは、潮である。満潮の月光を利用して,ひそかに皇子は脱出をはかるのである。 「今は漕ぎ乞はな」。さあ、今だ!チャンスを逃してはならぬ。舟を漕いでくれ。 皇子は叫ぶ。どうか、神よ、われに一隻の小舟を与え、それを漕いでくれないか。 私は梅原説を是とします。 梅原説よってのみ、八、三二二、三二三の関係が明瞭になるからです。 百済救援の途上、熟田津に寄港した斉明天皇は、この地に流され亡くなった軽太子のために鎮魂・慰霊の歌を作った。(八) 後に伊予を訪れた赤人は、ここは斉明天皇が軽太子のため 「歌思い 辞思はしし」 したところだ、と長歌に歌った。(三二二) 軽太子の船出は記憶も定かでない遠い昔の幻の船出だった、と反歌を添えた。(三二三) 斉明天皇は、自身の船出を詠んだのではない。 赤人も斉明天皇の船出を詠んだのではないのです。 斉明天皇も赤人も軽太子を詠んでいるのです。 「ももしきの大宮人」は軽太子のなです。 「ももしきの」の意味は「百年以上前の昔の、大昔の」なのです。 ここで「今者許芸乞菜」の読みに関する提案をします。 読みは、梅原氏の 「今は漕ぎ乞はな」 そのままでよいのですが、斉明天皇が軽太子の身になりかわって船出希求の叫びを上げたと解釈するよりはむしろ、斉明天皇の軽太子への慈愛に満ちた呼びかけと誘い、と解釈するほうがより適切であると思います。 すなわち、 熟田津に あなたは舟で配所を抜け出そうと 月をまっているのですね、潮も引き始めました さあ今ですよ、船を漕ぎ逃げ出しなさいな 妻の待つ都へ帰りなさいな。 I (斉明天皇) beg you(軽太子) to row away now. (今は漕ぎ乞はな) 時をこえて あなたが妻や友人に囲まれていたころ戻って、幸せに暮らしなさいな 切ない、悲しい歌に思えて、思わず落涙しそうになります。 冒頭に掲げた八、三二二,三二三のうち、八と三二三の関係が話の中心になりました。三二三は三二二の反歌なのです。 順序は逆になりますが、三二二は、八と三二三の軽太子の悲劇を踏まえた訳をしなければならないのです。
契沖、真淵、岸本由豆流、荷田春満、橘千蔭、鹿持雅澄、金子元臣、次田潤、武田祐吉、斎藤茂吉、澤潟久孝も研究者も万葉集愛好家も、すべてがとんでもない誤解をしていたかもしれない。 「月待てば」 月の出と決めつけていたのだ。 |